生き方への目覚め~ある講演録から (前編-1)


「国の理想と憲法」と自分の生き方

 

 お話に入らせていただきますが、皆さんがもう既に私の著書「国の理想と憲法ー国際環境平和国家への道」を読んで来て頂くということを前提に今日お話しすることを実は組み立てていたんです。そうでなくて初めてという方が大部分であればそういう話も一応できるようにしています。どういう方向性でも、お話できると思うのですが、私としては、一つはこの本に書かれていないこと、というのは、この本がどういう経過でできたのか、それは私自身の人生、どう生きてきたかということにとても関係があるのです。私自身そのことについて、お話できたらと思うと気持ちがわくわくしてきます。

 

 なぜそういうことを申しますかというと、この本は基本的には社会関係の本なのです。今日の社会的な状況の説明と、それに対する私の提案という形でできています。しかし私自身としては、これは私の生き方から出てきたもの、つまり言葉堅く言えば、生きるというのはどういうことなのか、真実の生き方とは何なのかという問題を掘り下げていったところから、この平和というものに対する一つの構想が浮かび上がってきたわけです。そのことについてお話するのが恐らくこの会で最も相応しい、それだけではないですが、大切なことかなと思うのです。皆さんにぜひ聞いていただいて、また、ご批判なりご指導いただければと思うのです。そういうことで、そこから話しを始めさせていただきたいと思います。

 

 この会に参加されている皆様の多くが、これまで真実の生き方をそれぞれが追求されてきたのではないでしょうか。私自身農業と教育、そういうことをやっておりますので、やはり生き方の問題というものが、皆さんにとって最も根本的な、そして共通の話になるだろうと思うのです。そしてそれがまた、この本の内容を検討するときに、大切な共通理解ではないかと思います。

 

 私の生い立ちを細かく話すのは時間の関係もありますので省きますが、実は私は、二十歳までは、世間で言うごく普通の生き方をしていました。家は父親が海軍の軍人でしたので、戦争が終わって熊本の田舎に引っ込んで細々と百姓をやっているという状態、それがどんどんジリ貧になりまして、今の基準から言えば、最も貧しい人たちの一人だというような育ち方をしました。


 子供の頃からのことを考えてみますと、おもちゃひとつ買ってもらった記憶がありません。そういうような家に育ちまして、性格も内気で人見知りをする。頭の回転も非常に遅れていたらしくて、小学校4年生までは今の5段階で下から1と2というような成績を続けていました。

 

やればできる

 

 そのうちに、私の生き方の最初の転機が訪れたのです。5年生の担任の先生がある時「野村さんちょっといらっしゃい。」と端の方へ呼ばれました。そして、「あなたはできるのよ。」と言われました。それまでは本当に落ちこぼれの典型で、登校拒否みたいなこともやっておりましたので、まさかと思うのが普通なのかもしれません。けれども、その時の自分の気持ちを思い返して、今でも涙が出るような感じがするのは、その時の自分の反応なのです。


 「あなたはできるのよ。」と言われたときに、私は「あ、そうなのか。」とこう思ってしまったのです。「僕はできるのか。」と。この単純さといいますか、純真さということ、これがなかったら恐らく、この後の自分の人生は全く違った、ある意味では惨めなものになっていたと思います。そこから、「じゃあ、やってみよう。」ということで勉強を始めました。ただ、学校の授業というのがどうもわからない。そういう面で駄目な部分がありました。そこで授業の前日に殆どのところを自分で調べて勉強する。国語の教科書も一つ一つ辞書を引いて調べるので自分でわかる。それで授業を受ける前までに、そこのところはすでに自分でわかっていた、というような勉強方法をなぜか編み出してしまったのです。その先生に「あなたはできるのよ。」と言われたのが5年生の一学期末です。一学期の時の通信簿は50人のクラスで下から1、2番なんです。 ところがその方法が非常に良かったのか、5年生の2学期末、12月の末には今度は上から5番になっていたのです。そのくらい急激な変化がありました。

 

 それ以来「やれば出来るのだな。」ということでやってきました。ところが家が貧乏なのと、体が非常に病気がちで、体力がないのでいろいろ考えました。結局自分には勉強しかないということで、その地方の進学校の高校へ行き、それから大学に進んだわけです。勉強ということに自分の中では価値をおいており、これで世に出るのだと考えていました。とにかく貧乏でしたので、なんとか自分の力で生活を安定させたい。それも出来るだけ安定させたい。学校の成績をよくして、一流の大企業にあるいは大きな会社に入れば、それなりに生活が安定し、自分の力を発揮できるのではないかと、そういうこと以外には考えておりませんでした。

 

既製品の生き方でなく
 ところがある時、丁度二十歳になったときなのですが、ハッと気がついたのです。その時ある小説を読んでおりました。スタンダールの『赤と黒』という小説なのですが、その主人公の生き方に非常に強烈なものがあるのです。その主人公の生き方に憧れたわけではないのです。野心をもってあくどく生きていく、貧乏な青年の姿を描いた小説なのです。ただその小説を読んで思いましたことは、「なんだ自分は今まで生きて来なかったのだな」ということです。丁度デパートのショウウインドウの中にある、いろんな品物の中でどれがいいかなという形で自分の職業、自分の人生を選択しようとしていた。つまり既製品が並んでいるその中のどれがいいのだろうかということです。決して自分の中から、心の奥から出てきた生き方ではなかったのだなということに気がつきまして、愕然としました。


 そして、その時思ったことは、人生というのはこの150億年の宇宙の歴史の中でたった1回きりなのだということです。自分というのはこの広大な宇宙の中で、そして永遠の宇宙の時の流れの中でたった50年100年生きるだけなのだ。たった一回きりの人生なんだなという事実にはっきりそこで直面することが出来ました。それで、この人生を最高最善に生きなくてはと思いました。

 

最高・最善の生き方とは
 その時から、では何が最高なのか、何が最善なのかということが問題になりました。いろいろ本を読んだりするのですが、結局わからない。いろいろ考えてみるがわからない。それで大学の3年生、4年生、最終学年になりまして、いよいよ就職活動の時期になりました。このままいけば、一応の一流の会社には入れる。けれども、どうも納得がいかない。非常に焦りました。それで時間の余裕が欲しいということで、大学院に進んだのです。ただそれだけです。名目だけは生物の研究をして生命の神秘を解き明かすという建前にしておりましたけれども、とにかくもっと考える時間が欲しい、ということで、東京の大学院に出てきました。

 

 その時に丁度あるご縁がありまして、この本の提案の原案者である、小田原の和田重正先生という方にお目にかかりました。この提案の原案の本を読んだり、和田先生のお話をお聞きしまして、「あぁこういう壮大な、しかも魂を、心の底から揺さぶるような考え方を提案している人がいるんだ」ということで、この提案を世に広めることを一生の仕事にしたいなと思ったのです。それが22歳の時です。


 丁度同じ時期に、まだ結婚していなかったのですが、女房の睦子がやはりその本を読んで、それから夜も眠れなくなってしまったくらい感激したのだそうです。そういうことを後になって知りました。そういうような過程があったのですが、社会の本来のあるべき姿、また、この提案の趣旨に関してはその時期に自分の考えがはっきりしました。ところが、一方の自分はどう生きたらいいのか、自分が最高に生きるということはどういうことか、本当の生き方、真実の生き方とは何かということは、依然として進展がなかったのです。和田先生のお話をお聞きしたり、いろいろな本を読んだりしました。

 

 その中で、段々はっきりしてきたことは、自分が何をどういうことをやっていきたいのかということでした。本も参考になりました。それを読むことによって自分が共鳴するということがありますので、自分はこういうことを望んでいるなということは段々はっきりはしてきました。

 

 ところが一方では、その道を行くとなると、その道がどういうものかというのは、この後お話しようと思いますが、その道を行くとなると、今まで築いてきた自分の人生、自分の口で言うのも憚られますが、もう自分にはこれしかないと、一流の大学でトップの成績でやってきていたわけです。ですからそのままいけば、研究室に残って、助手、助教授、教授となっていくだろうと、自分も考えていましたし、周りの人たちも見ていたと思います。ところが、その生き方は先ほどのショウウインドウの話から言えば、既製品を選んでいるのです。いろいろな既製品の中で世間では上等のものと思われている生き方です。それに対して、自分の心が本当に望んでいることは、そういうことに全くとらわれないで、ただひたすら道を求めて生きたい、そして自由でありたい、全てに自分の心が素直に納得する生き方、ただそういうことで生きて生きたい。そう生きていくのが一番いいのだと思っていたのです。それは一切の手がかり足がかり、地位、財産、家、そういうものに、一切依存しないで生きていこうということです。

 

白と黒の葛藤と苦悩
 このようにして、段々はっきりしてきたのは、とにかく世の中の世界中の人が幸せになり、世界が本当に生き生きとして平和になっていく、そういうようなことを願いながら一切の地位や財産、そういうものに関係なしに生きていくことが自分が本当に望んでいるのだということがはっきりしてきました。


 ところが、自分の中に二つの考えがあるのです。自分の中の白の部分と黒の部分がものすごく葛藤するのです。自分は本当は思い通りに生きて生きたいと思います。だけどそういう風に生きている人がまわりにいないのです。自分の世代やちょっと上の世代でもいない。そういうこともあり、この自分が持っているもの、世間的な名声とか地位とか安定、これを手放すのが非常に怖いのです。どこまでも怖いのです。白で生きたいと思う、頭ではそう思う、また感情的にも思うけれども、それをもっと大きな力で、黒の恐怖が押さえつけるのですね。そういうことで、23歳ぐらいからは、本当に悩みに悩み、考えに考えました。仏陀の言葉をまとめた本を読んでみたり、聖書を読んでみたりということもありました。

 

 自分にとっては命がけで問題なのです。自分の一生を最高に生きる。生きたい。そういうところでの葛藤ですから、殆ど生き死にの問題になっているわけです。自分が生きる価値、意味が一体あるのかないのか、というところまで考えました。こうして、もがきにもがいているうちに、ノイローゼではないのですが、とうとう体の方が参ってきました。どのように考えても解決が見出せない。いくらいろんな本を読んでも解決しない。読んでも頭ではわかるのです。けれども怖い。そういうようなことをやっていますと、体が参ってきます。このままでは、死の方向へ向かっていくのではないか、という恐怖もありました。


 そのうちに、心も参ってきました。また、心身の消耗と同時に、研究所で微生物を研究しており、顕微鏡などを頻繁に使っていたせいだと思いますが、目が真っ赤なって、猛烈に痛み始めたのです。どうしたのだろうということで、医学書なども本屋で立ち読みしたりして、いろいろ調べてみました。

 

 その結果わかったのは、どうも緑内障らしいのです。それでもなかなか医者に行きませんでした。本当のことを知るのが怖かったのです。しかし、とうとう25歳の12月の末に、私は1月7日が誕生日なので26歳になる直前で、丁度今ぐらいの時期です。東大病院に行って診察と検査をしてもらいました。半日ぐらいかかったのですが、もう本当にドキドキしていました。本当に緑内障だったら、今までやってきた、子供の時から積み重ねてきた努力はすべて駄目になる。そうなれば、目が見えない中で生きていかなければならないのだと思うと怖くてしかたがありませんでした。ですからドキドキしながら検査を受けて、検査の結果が出るまで本当に不安一杯で待っていました。

 

絶望の果てにあったもの
 そのうちに、先生が呼びに来られました。「検査の結果をご報告します。緑内障です。6ヶ月で失明するでしょう。」こう言われたのです。まさに、悪い方の予感が100%以上的中してしまったのですが、実はその時に、今までの私の人生の中で一番大きな奇跡が起こったのです。それはどういうことかと言いますと、先生が「6ヶ月で失明します。」と言われて、その後の説明に移られた時に、まったく意外なことに、私の心がとても安らいでいたのです。「あぁそうなのか」と、ただそれだけなのです。 そして一切の不安も感じませんでした。虚脱状態ではないのです。

 

 10分ぐらい説明をお聞きして、それでその部屋を出たのですが、本当の奇跡は病院のドアを開けて何気なく空を見上げたときに起こったのです。「あぁそうか、今まで自分が見てきた世界はみんな間違いだったな」ということです。今まで自分は、目が見える自分の人生と、目が見えない自分の人生というのは、全く違うものだと思ってきたのだけれども、目が見えなくても自分の生きる意味は全く違わない。目が見えようが見えまいが、一切の自分の人生の価値と意味は変わらない。本来そういうものなのだなということが、わかりました。これは天啓、天からの啓示のようなものだったのですが、それまでの人生の悩みが、それから1週間の間に全部解決しました。どういう解決の仕方をしたのかといいますと、それまで人生に対するいろんな深刻な疑問があったわけです。 ところが、その一週間のうちに人生についてのいろいろな問い対する答えが一つ一つ出たというよりも、その問い自体がなくなってしまったのです。

 

 そういう形で非常にすっきりしまして、その1週間の間に段々とこの世界が明るく見えてきました。もともと何もない、例えば「誰々のもの」とかそういうものもない。優劣もない。目が見える見えない。成績がいい悪いも含めて、差別もない。そして全てこの世界は自由なのだ。そして、それまで自分の中にあった、頭の中にあるもやもやした思いというのでしょうか、そういう霧のようなものがすっきり晴れた状態になって、自分の心が非常に澄んだ状態になっていました。「あ、この気持ちでいけばいい。」それは今まで経験したことのない透明さなのです。自分の心というよりも、本来の人間の心というのはそういうものだったのだ、ということがはっきりわかったのです。

 

真心に沿って手放しで生きる
 その時だけわかったということではなくて、これから「ここで生きていけばいい」ということなのです。わかりやすい言葉で言えば、俗な言い方ですけれども、「まごころ、本当の心」そのままで生きていけば、たとえ野垂れ死にすることであろうと、自分は構わない。それが最高の生き方だ。一切のものを持たずに生きていくのだ。ただあえて言えば、人のため世のために自分の全てを出していくいき方、これは自分の心の中にもともとあるものであり、ただそれだけでいいのです。結果が世間的にどういう風になろうと、それは自分の問題とするものではない。悲壮な決意でもなんでもなくて、非常に自由で軽やかなのです。そういうことで、自分はそれ以来、お金のために働いたということは、一切しておりません。その生き方はしない。得るために生きるということではない。そして何かを所有したり、持ったりするために生きるのではない。手放しで全部出していく。それで生きられればいい。そういう風にしてこれまで生きてきました。それまで自分は貧乏でしたから、家もないし、お金もない。失礼な言い方かもしれませんが、頼るべき宗教もない、お寺もない。ただ一つ頼りにするとすれば、天とつながっている自分の心の奥の天心、自分で言うのもおこがましいですが、自分のものとは思えないようなものが自分の中にあることに気がついたのです。

 

 そこに立つと自分の利己的な欲望などが自然に浮き上がって問題でなくなる。お医者さんに「失明です」と宣告される前は、自分の利己的な思いと本当に願うことの二つが対等の力で葛藤していたのですが、自分の利己的な思いというのは、所詮頭の中の考えや感情だったのです。目のことについて宣告された後に気がついたのは、もっとその奥にある、もともとあるもの、そういうような違いなのです。

 

 私が生きていこうと思ったのは、もともと自分の中にある心で生きていくということです。それ以来、その生き方で生きてきました。幸いにちゃんと食えてきたのです。道中衣食有りです。私は道を求めました。宗教者としては私は素人ですが、確かに自分なりに道を求め、その道を歩んで来ました。そうすると、衣食は自然に与えられる。この世界はそういう風になっているのだなと体験的に思うのです。ですから、キリストが山上の垂訓で言っているように、飛ぶ鳥蒔かず刈らず、病むこともなく、また思いわずらわうこともなし。何も心配することはないのだと、わかったので、非常に気持ちが安らぎました。気がついてみると、それからものすごく活動的になりました。

 

 こんなふうに生きればいいのだ、やっとわかったということで、毎日が楽しくて楽しくてしょうがないという人生をずっとやってきました。気がついてみたら緑内障もその半年後には良くなっていました。もちろんまだ、目自体は、疲れやすいなどということがありますが、まだ今でもちゃんと見えています。若い時にそんなことがありました。もちろんそれは悟りとか、そういう立派なものではありません。仮に「悟り」と言うにしても、その第一歩にしかすぎません。その後、まあまあの方向に歩み始めたと自分では思います。40年前に自分でわかっていたのは、大体人間というのはこういうものか、自分というのはこういうものか、世界というはこういうものかなという、大まかな見取り図が見えたような気がしていました。それが段々40年の中で、実際の生活を通して、少しずつ精密になってきているような人生だったと思います。

 

本当の生き方と本当の社会のあり方
 それが丁度暮の今ぐらいの時期から正月の自分の26歳の誕生日ぐらいの間に起こった一連の出来事です。自分はこの道を歩んでいけばいいのだということははっきりしました。だけれど、自分自身の問題は卒業ということではありませんが、それがさらに、「国に理想を掲げることによって世界に平和を」、という和田先生の提案と、どういう風に結びつくのか、ということを課題にしてその後生きてきました。最近、その二つは、両方が非常に絡み合っているというのでしょうか、平和というのは、「自覚」、自分とは何か、あるいはこの世界とは何か、この自覚なしには、本当の平和は創れないなということが、ここ20年ぐらいの間に非常にはっきりしてきました。(続く)

 

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(2008年8月31日日曜日)