生き方への目覚め ある講演録から (後編ー1)

人類の進化の方向 

ここまで私の生き方や体験についてお話してきましたが、次はこの本「国の理想と憲法」の背景となる人類の歴史などについて、一緒に考えていただければと思います。

 

地球に生命が誕生して、すでに何十億年か経ちます。最初はウィルスのようなもの、あるいは、単細胞生物が生まれ、そして多細胞生物に進化したようです。その後進化の過程を経て哺乳類が誕生し、最終的に数百万年前に最初の人類が誕生したと言われています。そして今・現在があるわけです。

 

人類は何を願って生きてきたか

問題はこの長い年月の間、人類は何を願い、また、人類社会はどのような方向に進化してきたのかということです。結論的に言えば、まず安全、便利、快適、高能率などを求めて人類の歴史が刻まれてきたのではないかと思います。それに付随して物質的な豊かさを求めてきたのではないでしょうか。これは安全、あるいは、生存の確保にも繋がります。

 

その一番の原動力は大脳の発達だと思います。大脳の発達こそが人類の先祖といわれている類人猿、あるいは、その他の動物と決定的に異なっているところだと思うのです。

 

科学技術への確信

とくに、有史時代、つまり、1万年か8千年前から今日まで、便利、快適、高能率を求めていく努力が段々報われてきました。要するに、科学的な合理性に対する確信のようなものが、地球上にはまだそこまで発達していない人たちもいますが、人類全体に広がってきました。

 

とくに、18世紀後半からの産業革命から、個人でも国家でも企業でも、便利、快適、高能率を求め、科学技術が優先され、急速に発達してきました。そういう意味で、科学的な合理性に対する確信と科学技術の急速な発達がこれまでの人類社会の一つの大きな特徴だと思います。これは人間と動物と何が違っているのかというときに、どなたも納得される人間の一大特徴ではないでしょうか。

 

瞬間的に人間が絶滅する可能性

私は便利、快適、安全、高能率の象徴が核兵器だと思います。最近では、タバコなど吸わないというのが、とくにアメリカでは流行していますけれども、タバコを吸いながらボタンをポンと押せば、10分後30分後に何百万・何千万の人間を殺すことが出来るという風刺画が少し前にありました。タバコを吸いながら指1本で何百人を殺しながら、自分は安全なところにいられるわけです。便利快適を求め、そのあげくに、もっとも高能率で、しかも自分は安全でいられる。こういう兵器を人類は開発してしまったわけです。

 

米ソ間の冷戦状態がもっとも激しかった頃には、地球上の人類全体を何十回と繰り返して殺せるだけの核爆弾が存在し、また、それを敵国に30分以内で打ち込めるミサイルが何千機も米ソ双方にありました。気ちがい沙汰です。科学技術文明の一つの象徴的な事実はそういうことです。これは、瞬間的に人間が絶滅する可能性があるということです。

 

慢性的に人類全体が滅びる可能性

また一方で、慢性的に人類全体が行き詰まり、滅びる可能性があると思われるのが、皆さんもご存知の、地球規模の環境破壊、人口爆発、食糧、エネルギー危機、原発問題などです。

六ヶ所村の再処理工場がフル稼働しているときに、もし大きな事故が起これば、どの程度の被害が出るだろうかという試算があります。その報告をみて愕然としたのですが、地球上の半分の地域の生物がことごとく死滅するであろうと言われています。六ヶ所だけではなく、フランスの施設でも、ヨーロッパ全体が吹っ飛んでしまうような事故がやっとのところで未然に防げたということがありました。

 

あまり強調されていませんが、チェルノブイリにしてもスリーマイルにしても、ほんのちょっとしたことから偶然が偶然を呼んで大事故になっています。つまり、どんなに事故防止に努めていても、思わぬことで大きな事故が起こりうるし、事実起こっているということです。そして、いったん事故になったら、とてつもなく大きな犠牲と被害がもたらされます。便利、快適、高能率を求めてきた科学技術文明が結局こういうものを生み出してしまったということです。

 

さらに教育の問題があります。日本だけでなくて世界全体で教育環境が破壊されています。その結果青少年が大きな精神的被害を被っています。人間的に力がない。若い人には気の毒な言い方ですが、心が歪んでしまった若者たちや子供たちが増えていることが、いろいろな調査で明らかになっています。

 

このままの方向では

核兵器の問題や環境問題など社会的なのことだけでなく、人間のこころ自体が蝕まれて来ている。このままの方向で、人類社会の進路・方向性を変えない限り、人類社会は本当に行き詰まってしまいます。現在は決定的な行き詰まりの寸前に来ているのではないかと思います。

 

ではこの行き詰まりを超える道はないのか、これが最も大切なことだと思います。私は偏った科学技術文明の合理性を変えない限りは、この行き詰まり・滅びへの方向は変わらないと思うのです。この考え方を変えないで、こうしたら、ああしたらということでは根本的に何も変わらないと思います。人類は根本的に間違った方向へ進んで来てしまったということです。その結果があらゆる面での行き詰まりとして現れているのだと思うのです。

 

存在の真実を自覚する

ところが、一方では、すでに2,500年前、あるいは2,000年も前から、釈迦やキリストをはじめ多くの賢人・聖人が、自分が生きることの意味に疑問を持ってさんざん苦しんだ挙句に、「自分とは何か」ということをはっきり自覚した方々がいらっしゃいます。その方たちは自覚を得た後、人間社会・人類の行き詰まりを見通して、それを超える道を自ら歩みながら、同時に人にも説いてきたと思うのです。

 

「自分とは何か、この世界とは何か」という自覚を体得した人たちが共通して言っていることは、人間社会は決してバラバラの他人の寄せ集めではない。人間だけでなく、全ての生物・無生物も含めて全宇宙が不可分の一体であるということです。人間の五官を通して大脳で判断すると、バラバラに見えるかもしれないけれど、その存在の真実の姿、実相は不可分一体であると言っています。

 

太陽光線とプリズム

常識的には、バラバラに見えているものが、本来はすべて一つのものであるということは理解しにくいのですが、それは五官を通して見ているからなのです。自覚を得た人たちはその五官を超えたところで観ています。その関係を考えてみますと、太陽光線は無色ですが、そこにプリズムを置くとそれが七色に分かれて見える。七色のそれぞれの色の間にはまたいろいろな色があるのだと思いますが、無数の色に分かれている。

 存在のあり方を私たちの五官というプリズムを通して大脳でとらえれば、バラバラに分かれて見えるけれども、存在のあり方の本当の姿・実相はこの太陽光線が無色であるように、すべてが一つなのだと、このような表現形式になるかと思います。

 

人間の特徴は大脳の発達

猿ともっとも異なる人間の特徴は、異常とも言える大脳の発達です。大脳は五官を通して認識・判断をします。この大脳が発達しているがゆえに、人間はなかなか本来の実相を捉えることが出来ないということになります。

 

少なくとも100年くらい前までは、人類の歴史の中で人類が破滅するとか、何千万もの人が死んでしまうというような大規模な戦争はありませんでした。したがって、まだ全体としてゆとりがあったために、多くの優れた賢者、聖人、自覚した人たちの言われることに多くの人々は耳を貸さなかったのだと思います。

 

これまでの宗教

もちろん、そうではない方々もいらっしゃいました。それらの方々が仏教やキリスト教などの真髄をずっと今日まで繋いで、伝える努力をしてきたということはとても尊いことです。しかし、社会全体としては人々はそれらの声に真剣に耳を傾けてこなかったと思います。せいぜい自分や家族のために健康や家内安全、家族の繁栄を神仏に祈るというような現世利益的なレベルで宗教というものを捉えてきたのだと思います。決してその全部が悪いことだとは思いませんが、仏教の信者、キリスト教、その他の宗教の信者であるという人でも、全体的にはそういうことだったと思います。

 

宗教の本質に戻る

しかしながら、この人類の行き詰まりを超えるためには、あらためて自覚を得た先人の声、真実の声を聞いて、存在の真実に目を開くしかないのだと思うのです。私たちはそういう時代に生きているのだと思います。この認識がとても大切だと思います。

 

もう一点は、人類社会の行き詰まりは社会全体の問題であると同時に、一人一人の生き方そのものにも関わっているということです。したがって、自分自身の本当の生き方を明らかにする、つまり、自覚することがとても重要だと思います。

 

人間観の転換、世界観の転換

そこで必要なことは知識でなくて智恵です。知識というのは大脳による、物事を知って細かく分析するところから出てきます。一方、智恵というのは、物事を総合的に、全体像として真実の姿をとらえることから出てきます。この智恵に基づいて考えること、具体的に言えば、人間観の転換、世界観の転換が今もっとも重要なことだと思います。それは本当のこと、存在の真実の姿を自覚するということです。

 

要するに、これまでのすべてはバラバラであるという見方に基づく科学的人間観から、すべては一つ、自他不可分一体と観る、いわば、宗教的人間観への転換が必要だと思います。

 

バラバラ観から生じるエゴイズム

バラバラ観を基にした科学的人間観では、お互いの存在は利害を異にする存在ということになります。そこから必然的にエゴイズムが生まれます。自分さえ良ければ、自分の家族さえ、自分の勤めている会社さえ、自分の国さえ良ければ、ということです。

 

そして、そこからいろいろな不幸なこと・不都合なことが起きてきます。孤独感、優越感、劣等感などの個人的な悩みやモノやカネ、そして、地位や名誉、あるいは権力などに執着する生き方、個人の間のいざこざ、憎しみ、恨み、奪い合い、企業間の熾烈な競争などが起こります。その結果、環境問題、人口爆発、南北問題、搾取、差別や不平等な所有形態などさまざまな問題が生じます。

 

国と国との間では、国家のエゴイズムの対立となります。そして、お互いの駆け引きが破れたときには戦争になります。そして、一旦戦争となった場合には、人々は自分の属する国家の生き残りのためという名の下に、命をかけて戦ってきました。少なくとも何十年間か前までは、多くの人々が戦争は仕方がないのだ、人間というのはそういうものなのだというような、諦めの中で生きてきました。

 

国家のエゴイズムが元凶

いろいろなエゴイズムをもっとも助長・増幅しているのが国家のエゴイズムです。国際社会は国家が単位となっています。エゴイズムの基づく国の基本的な方針は、飽くなき自国の繁栄と、危急存亡の時には自国の生き残りです。この二つを国の基本的な政策として、対外政策だけでなく、国内の教育、産業などの政策が進められているといういうのがほとんどの国家の現実の姿なのです。

 

自分の属している国自体の方向性がエゴイズムの方向にいっているのですから、国の対外政策はもちろん、その中に生きる個人や企業や産業、教育のあり方なども、当然、国の基本方針、つまり、エゴイズムに大きな影響を受けるということになります。

 

例えて言えば、京都から東京に向かっている新幹線のどの客席も、一号車も二号車も全部東京に向かっているということです。その中でどんなに自分が大阪に行きたい、京都に戻りたいと思っても、その思いを乗せた新幹線自体がまるごと東京に向かっているということです。逆に言えば、大阪に行きたい、京都に戻りたいと思うのであれば、途中の駅で下車して、大阪や京都方面に行く新幹線に乗り換えなければならない、乗り換えればよいということになります。(続く)

 

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2008108日水曜日